1984年に劇場でゴジラを観た少年が、アラフィフになって気づいた社会への怒りとの付き合い方
1984年の冬、小学生の私は映画館の暗がりで息をのみました。
スクリーンの中で、ゴジラが新宿の高層ビルを押し倒していたんです。
あれから40年以上が過ぎても、その原体験は忘れられません。 そして大人になった今、ゴジラ映画を観ると、ぶつけどころのない社会への怒りとの向き合い方を考えさせられます。
その答えは、とてもシンプルです。
社会への怒りは、抑え込むか爆発させるかの二択ではありません。
後悔するかどうかで、線を引けばいいんです。
アンガーマネジメントを教える私が、ゴジラ4作品を観返して、ようやくたどり着いたこの考え方。
ゴジラを観て育ったすべての大人に向けて、怒りとの付き合い方をお伝えします。
子どもの頃は、壊れるビルしか見ていなかった
子どもの頃の私にとって、ゴジラは最強の存在でした。実は今でも、そう思っているんです。
なかでも1984年版は特別で、スーパーXとの戦いに夢中になったのを覚えています。
今でも新宿の高層ビル群を歩くと、つい上を見てしまうんですよね。
あのビルにゴジラが倒れ込み、あのあたりでスーパーXが下敷きになった。
そんな場面が、勝手に頭の中で再生されます。
初代ゴジラを観たのは、大人になってからですが、子ども向けのゴジラ本には銀座の時計塔に迫る写真を何度も見ました。
銀座の交差点でその時計塔を見上げると、あの光景がふっと浮かんでくるんです。
でも、子どもの頃の私に見えていたのは、壊れる迫力だけでした。
アラフィフになった今は、その向こう側まで見えます。
- 核で怪獣に変えられた生き物の怒り
- すべてを奪われた人間たちの怒り
- その怒りを、どこへ向ければいいのか分からない無力さ
壊れるビルの向こうに、怒りが立っていた。
ゴジラは怪獣映画ではなく、怒りの映画です
ゴジラを怪獣映画の一言で片づけるのは、あまりにもったいない。
この作品には、日本社会への問いかけが詰まっています。
ゴジラが映してきたものを、並べてみましょう。
- 核兵器によって生まれ、姿を変えられた生き物
- 空襲の記憶を呼び起こす、都市の破壊
- 震災を思わせる描写(シン・ゴジラ)
- 人間の無力さと、浅はかさ
- 官僚制や民間主導のゴジラ戦という、日本社会の風刺
その中でも、私がいちばん心を動かされるのは怒りです。
ゴジラの怒りと、ゴジラに向けられる人間の怒り。
この2つが、同じスクリーンの中でぶつかり合っています。
核で怪獣に変えられた生き物の怒り
初代のゴジラは、水爆実験で生活環境を奪われて現れた生き物として描かれます。
もともとは、海の底で静かに生きていただけの存在です。
人間の都合で住処を追われ、体を作り変えられ、そして怪獣になった。
そう考えると、あの咆哮が私には理不尽への怒りに聞こえてきます。
私が思うゴジラは、殺せない破壊神
私は、ゴジラを怪獣ではなく破壊神だと思っています。
神だから、通常兵器はほとんど効かない。
シン・ゴジラでは、自衛隊の攻撃で傷ひとつ付きませんでした。
ゴジラ-1.0では、巡洋艦・高雄の主砲が直撃しても、ダメージはあるが決定的ではありません。
1984年版では、上空で起きた核爆発の衝撃波が、気を失っていたゴジラを目覚めさせてしまいます。
核実験から生まれ、放射能を周囲に撒きながら進む存在です。
おそらく核攻撃でも、深刻なダメージは負うものの、死なないでしょう。
だから人間にできるのは、殺すことではなく、自然の力を借りて封じることです。
- ゴジラ(1984):三原山の火口に誘い込み、マグマの中へ封印する
- シン・ゴジラ:凍結させて、活動を止める
- ゴジラ-1.0:深海の水圧と減圧で、ダメージを与える
唯一の例外は初代で、人類はオキシジェン・デストロイヤーという新兵器を使ってゴジラを倒しました。 ただし、その後もゴジラは再び人類に向かってきます。
すなわち、ゴジラは排除できない。
台風や地震などの災害と同じで、避けられず、変えられない。その象徴なんです。
破壊される側の人間が向ける怒り
殺せない相手に街を壊された人間には、怒りが残ります。
家も、仕事も、大切な人も奪われる。
恐怖は、やがて怒りに変わっていく。
怒りは、人を立ち上がらせる力にもなれば、破壊をさらに広げる引き金にもなる。
怒りそのものに、善悪はない。問われるのは、その向け方です。
四つの作品に映った、社会への怒り
ここからは、初代、1984年版、シン・ゴジラ、ゴジラ-1.0の4作品を見ていきます。
それぞれに、違う顔をした怒りが映っていました。
初代ゴジラ:核実験への怒りと恐れ
初代が公開されたのは、1954年11月3日です。
水爆実験の記憶が、まだ生々しい時代でした。
スクリーンの中の恐怖は、空想ではなく現実の延長にあったはずです。
大人になって初めて観た私も、ゴジラの咆哮に怒りと悲しみが混ざっているように感じました。
ゴジラ(1984):怒りに核で返さなかった首相
1984年版は、米ソが対立する冷戦の時代を背景にしています。
劇中では、米ソが核の使用をゴジラへの対抗策として日本に求めてくるんです。
劇中の首相は、核を持たない、作らない、持ち込ませないという国の原則を理由に、その要請を断ります。
核が生んだ怒りに、核で返さなかった。
その決断が、私には怒りの連鎖を断つ選択に映ります。
シン・ゴジラ:動かない組織への苛立ち
シン・ゴジラの前半は、会議のシーンが続きます。
前例のない事態に、結論を急ぐ空気。
常識外の意見は、あっさり退けられる。
観ているこちらは、画面の中に日本の組織の姿を見て、じわじわと苛立ってきます。
ここで湧くのは、ゴジラへの怒りではなく、動かない組織への怒りなんですよね。
ゴジラが津波のように川をさかのぼる風景を、震災の記憶と重ねた人も、多いのではないでしょうか。
ゴジラ-1.0:政府への不信と、民間が立ち上がる怒り
ゴジラ-1.0の主人公は、特攻から生きて帰ってきた男です。
命を捨てろと命じた国は、戦後も責任を押し付け合うばかり。
この作品に流れる怒りは、政府への不信と、生き残った自分を責める気持ちの重なりです。
国が頼れないなら、自分たちでやるしかない。
そうして、民間の人たちが立ち上がるんです。
変えられるものと、変えられないものを分ける
ここまで、ゴジラの怒りと人間の怒りを見てきました。
では、私たち自身は、社会への怒りをどう扱えばいいのでしょうか。
アンガーマネジメントでは、怒るか怒らないかを変えられるか、変えられないかで分けて考えます。
社会の大きなテーマほど、個人の力では変えにくいものです。
そして、テーマが大きくなるほど、怒り続ける個人の負担も重くなります。
分けてみると、やることが見えてくるはずです。
- 自分の行動で変えられること:行動に移す
- 自分の力では変えられないこと:抱え込みすぎず、距離を置く
- 変えられないけれど、どうしても見過ごせないこと:次の問いに進む
ゴジラは、人間には変えられない存在でした。
けれど、立ち向かう方法や、組織の動かし方は、変えられたんですよね。
怒りも、これと同じです。
怒りそのものを消すことはできません。
けれど、時間を置く、距離を取る、誰か仲間の力を集めるといった形で、封じ込めて付き合う道はあるんです。
怒るか飲み込むかは、後悔するかどうかで決める
それでも、どうしても見過ごせない怒りは残ります。
怒らなければならないと感じるなら、怒っていいんです。
ただし、線引きはひとつだけ。後悔するかどうかです。
怒りが湧いた直後は、頭に血が上っているもの。
その血が上った状態をやり過ごし、冷静になれたら、次の3つを自分に問いかけてみてください。
- 飲み込んだら、1年後の私は後悔しているか
- 怒って行動したら、1年後の私は後悔しているか
- 怒りをぶつける相手と手段は、これで合っているか
答えが出たら、その線引きに従えば大丈夫です。
怒ると決めたなら、次は変えられる見込みがあるかどうかを見極めます。変えられる見込みがあるときだけ、その怒りを行動に変える。
飲み込むと決めたなら、それは逃げではありません。
怒ってもいい。ただし、後悔しない怒り方を選ぶ。
ゴジラ-0.0を待ついま思うこと
11月3日、ゴジラ-0.0が公開されます。
この日付は、初代ゴジラが公開された1954年11月3日と、同じなんです。
72年の時を経て、ゴジラが同じ日に戻ってくる。
予告のラストの咆哮から、敵怪獣が登場するのでは、という予想も広がっています。
ただ、予告編を観ていると、今回は単なる怪獣対戦にはならない気がしてなりません。
今回の私の注目点は、次の3つです。
- ゴジラの怒りには、どんな理由があるのか
- 人間の怒りは、どこへ、どんなふうに向かうのか
- 怒りを前に、人はどう向き合うのか
まとめ
ゴジラと怒りをめぐる話を、5点で振り返ります。
- ゴジラは、怪獣映画であるが、怒りの映画でもある
- ゴジラは殺せない破壊神だからこそ、人間は封じて付き合う道を探した
- 4作品には、核、組織、政府と、それぞれ違う怒りが映っている
- 社会への怒りは、変えられるかどうかで分ける
- 怒るかどうかは、後悔するかどうかで決める
怒りは、消すものではありません。
向け方を選べば、自分を守る力にも、社会を動かす力にもなります。
最後に
子どもの頃に観たゴジラは、ただ強くてかっこいい怪獣でした。
アラフィフになった今は、怒りとの付き合い方を映す鏡のようです。
11月3日、映画館の暗がりで、あの頃の少年にもう一度会ってきます。
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